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伝統芸能な旅 Vol.4 唄う島を訪ねて
鹿児島と沖縄の間に浮かぶ奄美諸島。
奄美大島、喜界島、加計呂麻島、徳之島……。それぞれの島に唄があり、島どころか各島の集落ごとに伝えられる唄が少しずつ異なります。聞けば、「シマ」という言葉はもともと集落を意味し、島唄も本来は「集落の唄」という意味なのだとか。
そんな奄美の唄には、古くは万葉の時代に見られた掛け合いの文化が息づいています。
現代の私たちが知っている「歌」の概念ではとらえきれない、広がりと豊かさを持つ奄美の唄。
それを肌で感じる旅となりました。
Photo by 武藤奈緒美
◆即興文化に魅せられて
ことの発端は、この動画だった。
阿波踊りのルーツが熊本の牛深ハイヤ節にあるらしいと聞き、どんなものかとYouTubeで検索し、ヒットしたこの動画にくぎ付けになった。
なんだこの光景は。
普通のおじいさんおばあさんが、即興で踊り戯れている!
日本人って、もっとシャイじゃなかったっけ?!
なんだ、この楽しげな村は!?
このラテンなおじい・おばあ達は!?
私たちが知っている日本人像が、キラキラと音を立てて崩れていった。
私たちは、我々日本人を本当には知らないのかもしれない。
こんな自由な人たちのこと、もっと知りたい!
興味燃料に、ボッと火がついた瞬間だった。
リサーチを進めると、牛深ハイヤ節は、奄美大島の「六調(ろくちょう)」という曲から来たという説にたどり着いた。動画を調べると、同じように自由に踊りまくる人たちが現れた。
こちらもまた、楽しそうじゃないか!?
牛深ハイヤ節と異なり、奄美の六調は今でも広く踊られるという。折しも、9月に行われる「八月踊り」という祭事では、必ず六調が踊られるとな。
さらに調べていくうちに、ドーンとそびえ立ったのが、奄美の「唄遊び」の文化。
即興で男女が唄の掛け合いをして遊んだというもので、ゲームのように言葉遊びを競い合い、唄でおしゃべりをし、時には唄で恋をささやきあっていたという。
唄を中心に地域がつながり、男女がつながり、時をつないでいたという。
なんてステキな生き方!!!!
しかも、「八月踊り」はまさに、男女が唄を掛け合いながら五穀豊穣を祈る行事なのだとか。日本人の中に眠る即興文化に興味津々だった我々は、たちまち奄美にロック・オン!
こうして、調べるほどに増す奄美の唄への憧れを抱えて、六調に端を発した奄美への旅が始まったのだった。
◆奄美の「唄遊び」文化
夏の日差しが照りつけるさとうきび畑を抜けて我々が訪ねたのは、島内でも特に唄や八月踊りの保存に熱心だといわれる奄美市笠利町の佐仁(さに)集落。佐仁八月踊り保存会の会長であり、唄者(うたしゃ)でもある前田和郎(まえだ・かずろう)さん(74歳)が笑顔で出迎えてくださった。
唄者とは奄美の民謡である島唄を唄う歌手のことで、前田さんは30歳頃に島唄を習い始めたのだそう。それはまで民謡にそれほど興味もなかったが、ある日、親戚との旅行中のバスの中で、「唄でも唄って」とマイクがまわってきて、幼い頃から聞きなれた『朝花節(あさばなぶし)』という曲を唄った。するとそれを聞いた親族が涙を流し始めた。
「家内の従姉の方とか泣いてるの。ポロポロ泣いてるの。いや民謡ってこんなに人を感動させるのかと思って」
その姿を目の当たりにした前田さんは、旅から戻ってすぐに先生の門を叩いたのだそうだ。
前田さんが習い始めた頃は、島唄はふだんの暮らしの中に常にあった。
「あの頃、集落にはたくさん島唄の上手な先輩達がいて、夜集まっては唄遊びをしていた。多い時には20人くらいが夕飯を食べたあとに集まって、夜8時頃から深夜までやるんだよ。男女の掛け合いで、30秒~1分くらいの朝花節のメロディーにのせて、即興で自由に言葉をのせて唄う。冗談めかしたことを唄ってみんなを笑わせるのがうまい人もいた。おしゃべりする暇なんてないよ、ずっと唄いっぱなし。楽しかった」
4時間近く、おしゃべりもせずに即興で唄を掛け合う。それはもう、唄そのものが会話であり、コミュニケーションなのだなぁと、その光景を思い浮かべた。なんと粋で、知的で、素敵な文化なんだろう。この「唄遊び」の様子をひと目見たくて我々は前田さんをはじめ、ほうぼうに問い合わせてみたが、残念なことに今ではこうした即興の形での唄遊びはほとんど残っていないという。
「今はそういう遊びの場がないよね。食べ物を持ってみんなで集まるというようなことがなくなってきた」

奄美の三味線。今は人工皮も多いが、ニシキヘビの皮が張られた三味線に、竹製の細いバチ
◆奄美の唄は生活そのもの
「奄美の民謡はね、唄じゃないんですよ、生活そのもの」と前田さんは言う。
奄美の唄は、貧しい生活の苦しさや、恋の歌など悲しいものが多い。農民の貧しい暮らしや心情、悲恋などが、非常に実感を伴う歌詞で描かれている。
「集落の先輩方の唄を録音して回っていたことがあるんですが、もうどれもほんと泥臭い庶民の唄。いろんなことに苦しんだ人々の泥臭さとか思いが、1つの曲にたくさん詰まっている。それこそが奄美の民謡なんです。ただの唄じゃない、ただの言葉でもない。僕も教える時に『語るように、唄うように、唄ってください』と言っています。ただ綺麗に作って唄うものじゃないんです」
今はコンテストも増えて、島唄を習う若い人も増えた。「それは嬉しいけれど…」と前田さんは言葉を続けた。
「彼らは点数を取るために唄うので、昔より唄のテンポが遅くなった。声をしっかり聞かせようとするからね。唄掛けや唄遊びといった、人と交流する、楽しむために唄うというのとは違ってきていて、そこが悲しい所ではあるね。本当の唄の目的は楽しみだから」
「朝花節」
稀(ま)れまれ
汝(な)きゃ拝(うが)で
今(なま)汝(な)きゃ拝むば
にゃ何時(いち)頃拝むかい
(訳)
久しぶりに あなたとお会いできました
今日はお会いできましたが、
こんどは何時またお会いできるでしょうか
◆八月踊りの唄
奄美では旧暦の八月が1年の始まりと考えられていたそうで、毎年その時期は各集落で老若男女が集い、五穀豊穣を祈る踊りが踊られる。それが八月踊りだ。円陣を組み、チヂンという太鼓に合わせて、男女が踊りながら唄を掛け合っていく。かつては1軒1軒の家の前で唄い、踊っていたそうで、昼ごろから始めて夜通しやっていたところもあったという。昭和55年頃から全ての家ではなく、集落の中の数箇所で踊るようになった。
八月踊りの唄は、男女の掛け合いによって短い歌詞をつないで一つの物語のある曲を作り上げる。集落ごとに伝わっている曲があり、佐仁の集落には24曲あるという。
「男女の掛け合いで進んでいくのですが、男女それぞれに打ち出し(唄を唄い始める人)というリーダーの人がいて、その人がリードして掛け合いをし、周りがそれについて唄う。踊りながら唄を掛け合って物語が出来ていくのはとても楽しいですよ。
ただ打ち出しになる人は歌詞を全部分かっていないと掛け合えないから、1曲通して一人で唄う島唄より八月踊りの唄の方が教えるのも残していくのも難しい。例えば僕だけ知っている唄があっても、女性でその唄を知っている人がいないと成立しないですからね。そういう唄がすでに幾つかあって悲しい。島唄はCDからでも習えるけど、八月踊りは掛け合うタイミングがすごく大事で一人じゃ習えないから、打ち出しの人を育てるのが難しい。しかも集団でやるものなので、一回火を絶やすとなかなか復活できないだろうし、何とか守っていこうと頑張っています」

前田さんは現在、自宅のほか、公民館や小学校などで島唄を教えている。
「いつか島の外に出た時に、奄美の唄を唄ってくれたら嬉しい」
◆いざ、八月踊りへ
奄美の各集落の人々が大切に守ってきた八月踊りの文化。それをぜひこの目で見たいと、八月踊りで盛り上がる大笠利(おおがさり)の金久集落へ 。大笠利は佐仁集落と並んで大きな八月踊りコミュニティを持つ。
午後7時。チヂン(太鼓)が鳴り響き、いよいよ八月踊りのスタートだ。開始を告げる男性陣の声が夜空に朗々と響き渡る。指笛を鳴らすリーダーを中心にチヂン隊が並び、左右に数人の打ち出しの方々が男女に分かれて並ぶ。その後を男女それぞれの踊り手が続き、一つの輪を形成していた。
ゆったりとしたリズムを刻むチヂンに合わせ、まずは「祝つけ」という曲が唄われる。「さぁ、はじめよう」といわんばかりに唄が進み、はじめはまばらだった人影も、あっという間に40~50人程に膨れた。
「祝つけ」
こん殿地(とのち)庭に 祝(ようぇ)つぃけぃてぃおしょろ
これからぬ先や お祝(ようぇ)ばかり
(訳)
このお屋敷の庭に お祝いして差しあげましょう
これから先は お祝いばかりが続きます

チヂンの音に誘われ、甲高い指笛の音に煽られて、踊りも唄もどんどんと勢いを増す。
いつの間にか、輪の内側に集落の子供達と学校の先生達の踊りの輪ができた。大人達に見守られながら実に楽しそうに踊る。この日ばかりは子供だって夜更かしOKなのだ♪
その後、次々に唄が繰り広げられていく。50代以上の打ち出しの掛け合う唄に合わせ、唄はわからないが踊りたい若い世代が足を踏み、手を揺らす。
八月踊りの唄の歌詞は八・八・八・六の定型で書かれていて、上の句(八・八)と下の句(八・六)の二節からなる一首が基本単位。1曲あたり短いものだと二首、長いものだと二十首以上の歌詞がある。一首ごとに男女が掛け合いをしていくのだが、下の句はたいてい2回繰り返して唄い、男女とも相手の唄の下の句に重ねて唄いながら、続けて自分の一首を繰り出していく。
歌詞は曲ごとに決まったものがあるが、どんな曲にも使える「共通歌詞」なるものもあって、決まった歌詞が終わったあとは、その共通歌詞から適した歌詞を即座に選び出し、掛け合うのだ。前者が唄った歌詞の内容につながるものとか、同じキーワードが含まれているものなど、掛け合いには一定のルールがある。うまい歌詞が出せず、唄を途切れさせた方が負け。その勝負を制するために覚えるべき歌詞の数は100どころではない。すべての曲を覚えており、さらに共通歌詞もたくさん覚えているというツワモノが「打ち出し」となり、掛け合いゲームを引っ張っていく。完全オリジナルな即興ではないにせよ、こうやって、即興的反射神経で唄が展開し、踊りが続いていく。なんという遊び!

民家では、お振る舞いが出される習わしで、休憩時間には、大量の食べ物・飲み物が次々と回ってくる。お酒のお振る舞いを担当するのは20代~40代の若い衆、食べ物は小中学生や女性陣
◆唄が生きている
私たちは頂いた歌詞カードとにらめっこしていた。歌詞の内容はいろいろで、美人がゆえに不幸な運命を背負った女性の唄や、収穫物の豊作を祝う唄、親を思う唄、愛人の唄なんかもある。隠語を使った際どい歌詞もあったりして、まさに生活のすべてが唄にあった。今どんな唄を唄っているのか聴き取りたくて、歌詞カードのページをめくるも、リスニングさえままならず、手がかり皆無。もうこれはわからないと腹をくくって、観察に徹することにした。
汝(な)きゃとぅ吾(わ)きゃゆらてぃ
何時(いつぃ)遊(あすぃ)でぃみりゅり
遊ぶ時(とぅき)よしま とけて遊ぼ
こぅれほどむ遊び 組み立ててぃからや
夜ぬ明(ゆ)けてぃ太陽(てぅだん)ぬ 昇(あがる)までに
遊ぶ夜ぬあささ 宵(ゆね)と思(おめ)ば夜中(ゆなか)
鳥(とぅり)鳴(うた)うと思ば な夜(ゆ)ぬ明けり
(訳)
あなたがたと私たちは集まって、いつも唄遊びをする
唄遊びをする時は、打ち解けて遊ぼう
こんなに楽しい唄遊び 唄い続けて
夜が明けて太陽の昇るまで
唄遊びをする夜の短いこと まだ宵かと思えばもう夜中
鶏の鳴くころかと思えば、もう夜が明けてしまう
(※八月踊り唄「むぃぐりあんど」一部抜粋)
唄を打ち出す皆さんの顔は、自信と喜びにあふれている。集落の大切な文化を引っ張っているという自負もあるだろう。それ以上に、中高年の男女が、まるで中学生のようにそれぞれ団結し、喜々として競い合っている。男性だけでなく女性までもがエネルギーを迸らせ、唄い踊る姿は、見ているこちらがうれしくなるほどだ。

突然、曲の途中で唄が途切れるシーンがあった。どうしたんだと見ていると、打ち出しの一人が「女の勝ち!」と宣言した。どうやら、男性陣が歌詞に詰まったらしい。女性陣がわははと笑う
集落の家々の前に場所を変えて、踊りは続く。静かな島の夜に、絶え間なく明るい歌声と太鼓の音が響く
それぞれの曲はゆったりとはじまり、次第に速さを増していく。曲を重ねるごとにだんだんと唄も踊りもヒートアップしていき、私たちもいつしか、その輪に入り、見よう見まねで踊っていた。
祭りはクライマックスに差し掛かり、お待ちかねの六調が流れ出す。三味線、太鼓(チヂン)、唄、踊り、ハヤシ、指笛、この6つの調子が揃って六調と奄美では言うそうで、三味線が入り、アップテンポで一気に熱が入っていく。老若男女入り乱れ、各々が両手を広げ、自由に踊る。お酒もたっぷり入って最高潮だ。唄い手たちは音楽隊に寄り添い、ここでも唄で祭の最後を盛り上げていく。
ふと気が付くと、踊りの輪の傍では、80代、90代の長老組がベンチに腰掛け、唄で参加していた。最長老は97歳の長井清さん。彼の唄を学ぼうと、中年組が四方から顔を近づけ、耳をそばだてて熱心に聞いている。こうやって、今日まで唄がつながってきて、これからもつながっていくのかもしれない。
◆つなげていく唄文化
この唄文化を「つないでいこう」「残していこう」と力を尽くしている人はほかにもいた。
島唄を研究している林義徳さん(74歳)は、文献や集落の中に散在していた歌詞を収集し、5年ほど前に金久集落のための教本を整えた。「昔は、みんな工場で紬を織りながら唄を唄い、自然と覚えた。いまはそんな場がないから」と、月に2回、林さんの教本をもとに公民館で唄・踊りの練習が行われている。唄文化が消えつつあるのは、奄美のどの集落でも同じ状況だ。今では、他の集落でも林さんの教本を参考に、伝承の努力が続けられているという。
8年前にUターンして奄美に戻ってきた川上隆一郎さん(33歳)は、1年ほど前から八月踊りの練習に参加している。理由を尋ねると、「そろそろやばいなぁ」と思ったからだとか。この文化を繋げていかなければならない、使命感のようなものだと言う。でもそれ以上に、みんなで寄り合って飲むのが楽しいから、と笑う。
楽しみながら唄を覚え、掛け合いを学んでいく。生活スタイルが変わっても、そうやって次の世代へと唄文化が残っていくことを願わずにはいられない。

大人達は、シマの先輩に挨拶をして近況の報告や我が子の成長ぶりを伝える。共に唄い踊り、酒を酌み交わす集落の大切な時間
祭の最中、みんな口々に言っていた。「これだけは子供に見せたい」(50代男性・名古屋から帰省)、「この祭りだけは絶対帰ってくる」(30代女性・大阪から帰省)、「旅行を計画していたけど、八月踊りにぶつかると分かって即キャンセル。危ないとこだった(笑)」(20代女性・地元在住)、「八月踊りいいでしょー!住みたくなったでしょ!?」(60代男性・地元在住)。
観光客なんていない。地域の人が、唄と太鼓と三味線を持ち寄って、普段着で行う祭りだ。でもこんなに愛されている。
憧れ訪ね来た、唄の島。
奄美では、日常で唄遊びをする場面はほとんどなくなったという。その現実は、やはりさびしい。でも、八月踊りにはその文化の一片が残っている。仰々しい仕掛けは何もいらない。唄といくつかの太鼓・三味線だけで、地域の人々が集い、愉しみ、地域を想う。シンプルで素晴らしいじゃないか。うらやましく、あたたかい気持ちを抱えて、東京へと戻ってきた。
・・・で、戻って20代の同僚に奄美の土産話をしたら、「ラップバトルじゃないですか!」と興奮された。今、若者の間で流行っているゲームで、街角に集まり、ラップに乗せて即興で言葉を投げ合い、内容の面白さやグルーヴ感なんかを競うらしい。
なんと!唄遊びが現代に蘇っているではないか!!即興文化、唄掛け文化は、形を変えていまだ日本人の中に脈々と息づいているのかもしれない。
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もひとつおまけの、奄美の旅。
この掛けがえのない文化を支えるシマの皆さんの姿と、本文中には載せられなかったお祭りのひとコマです。旅でお世話になった皆様、ありがとうございました!